タイ北部とミャンマーへ行ってきます(東野剛巳)2014.12.10


これは、我が「北海道エゾシカ倶楽部」の会員、東野剛巳氏がタイとミャンマーへ旅したときの紀行文です。

当地の仏教のありようが詳細に記されているので興味深いため、エゾシカ倶楽部HPより転記しました。


 12月14日から2週間タイ北部とミャンマーへ一人旅をする予定で、山岳少数民族で有名なメイホーソン地区でタイの友人達と会い、それからミャンマーの世界三大仏教遺跡であるバガン遺跡を訪れようと思っています。バガンの仏教遺跡は、特定の地域に数千に及ぶ仏塔が建てられていて、写真を見ると信じられないくらいの壮観です。当然世界遺産にも登録されるべきなのですが、政治的なしがらみがあってまだだそうです。タイとミャンマーではお坊さんはとっても大切にされて、尊敬されています。


毎朝托鉢で始まり、いたるところにお寺があり市民に開放されていて、毎日1時間程度のお祈りを欠かさない人もたくさんおり、毎日の国民の生活に仏教が密着しています。

町ごとに大きなお寺があって、学校、病院、孤児院などの運営しており、これらの運営基金は全て寄付によって賄われているそうです。

また、タイでは1日に9つの寺でお祈りすると幸運が巡ってくると信じられているそうで、

昨年は思わぬ怪我などが遭ったりしたので、今回の旅行でタイの友人が気を利かせてくれて、タイのメーホーソンで9つの寺を一緒に廻ってくれるとの事です。帰ってきたら旅行記を書きますね。(東野)

 



世界三大仏教遺跡”バガン仏塔群”に感動!! (2015.2.3)


1月中旬にタイとミャンマーを旅行しました。旅の前半は、タイの北部メーホーソンに行き現地の友人に地元の寺院&リゾートに連れて行ってもらい、後半は単身でミャンマーのバガンへ旅行しましたが、今回は世界三大仏教遺跡で有名なバガンについて話をします。

最初にミャンマーと聞いて何を思い浮かべますか? ビルマと言ったほうがなじみがある人も多いでしょうし、『ビルマの竪琴』を思い出す人もいるでしょう。また、アウンサンスーチーや軍事政権という怖い国だと思っている人も多い事でしょう。

 しかし、上座部(小乗)仏教の文化を持ったこの国には、道を尋ねても親切に教えてくれるような善男善女が多く、また治安も悪くないなと思いました。イギリス植民地時代の香りが残るヤンゴン、

広大な仏教遺跡があるバガンに行きましたが、行ったところすべてが新鮮に映りました。 



本ではあまり知られていないのかもしれませんが、バガンは、カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺のひとつと称されており、無数の仏塔に埋めつくされる仏教遺跡は本当に素晴らしかったです。ヤンゴンから国内線で1時間半ほどの距離にあるバガン遺跡は、約40km2のエリア内に仏塔・寺院の数は3000を超えるといわれ、これらは最初のビルマ統一王朝であるパガン朝の都であった西暦1000年代から1200年代に建てられたもので、ミャンマーの仏教徒にとってそれは大事な存在です。


当時の信者はお釈迦様の家である仏塔(パゴダ)を作り、お釈迦様の仏像を中に置き、毎日拝んだそうです。バガン王朝時代には仏塔の数は万数以上あったようですが、戦争や地震のせいで、現在の数の仏塔しか残っていないです。

また、仏塔のそれぞれに物語があり、例えば亡くなった夫のために奥さんが作った小さな仏塔とか、幼くして亡くした我が子のために親が建てたものなどの仏塔もたくさんあります。 


私は、電動バイクをレンタルして、広大な仏塔遺跡内を2日間かけて巡りました。

観光客は、イギリス、フランス、スペインなどのヨーロッパ方面が多く日本人は見掛けませんでした。

彼らはカップルや家族、友人同士などレンタル自転車を漕いで、それぞれ思い思いの遺跡巡りをしていました。

日の出と日没の時間帯に、バガン屈指の仏塔であるシェサンドー・パヤーに登り仏塔群を眺めましたが、大地に沈む(昇る)太陽でオレンジ色に染まった無数の仏塔は感動的でした。


ャンマーの入国にはビザが必要な事、また日本ではミャンマー通貨に換金できないこと、一般的にホテル・タクシーではUSドルが使えるが、折り目があったら使用できないことなど複雑な現地ルールがありますが、まだ手つかずの遺跡や自然が多く残っており旅行する価値は十分あると思います。(東野) 


タイの仏教について 2015.2.14


タイは小乗仏教(上座部仏教)の国と言われていますが、実際現地を訪ねると、生活のあらゆるシーンで仏教が根付いていて、日本との違いを感じました。

日本で広まっている大乗仏教とは、広く衆生を救済しようとする思想であるのに対して、タイの小乗仏教とは、大まかに言えば、厳格な仏教修行をしたわずかな人だけが救われるというような思想です。

また、小乗仏教では、善行を積み重ねる行為をすればするほど、来世では幸せな生まれ変わりができると信じられていて、最大の善行(ダンブン)は僧侶として出家することですが、在家信者も様々な方法で徳を積むことができると考られています。 


出家する

•息子を出家させる

•お寺に寄付をする

•僧侶に托鉢する

などが小乗仏教における代表的な功徳ということになりますが、そのことからタイでは一時的ながら、自分の息子を積極的に出家させて、僧院での集団生活や托鉢などの厳格な戒律のもと、修業を積ませることが多いのです。

 また庶民は、托鉢に来た修行僧が子供といえども最大限の敬意を払ながら食べ物を彼らに献上し、その少年僧侶も当然のように貰っているという姿がとても印象的でした。(写真参照) 



 修行僧は、午前中しか食事をとってはいけないため、托鉢は早朝のみ行われます。メーホーソン(タイ北部)の知り合いの家にも、毎朝6時頃に休日祝日を問わず多くの僧侶が托鉢に訪れるそうで、毎朝5時には起床して自分たちの朝食の準備とともに、托鉢僧に献上する食べ物も用意することが日課となっているそうです。 

また、タイのいたるところに金色の寺院があり、これらの建立費用は全て地元の人たちによる寄付で賄われているそうで、その中のお祈りの場は一般に開放されています。内部は、お祈りする人たちで溢れており、その中で多くの若者も熱心にお祈りしていました。 


 これらの仏教観とともに、1年を通じて暖かく(暑く)また食糧自給率が200%近くもあり衣食住には困らない背景などから、いつも微笑みを絶やさず温厚、楽観的で、またお金にも執着しないというタイ人の性質は、このような生活環境により形成されたものだと推察しています。

                                                                                                                                                                                                            (東野)


もっと見ますか?東野さんの楽しい写真 (2015年のトルコ旅行)


美しい町を旅しながら、頭の中でエゾシカ猟「狩猟特区」の構想について(北海道エゾシカ倶楽部HP掲載)考えていたなんて笑ってしまいます。


トルコは親日の国。

トルコの人たちは日本人が大好き!

東野さんのカメラにも親しみを込めた笑顔。

イスタンブールにて。

イスタンブール
イスタンブール
アジアとヨーロッパの分岐点(ボスポラス海峡)
アジアとヨーロッパの分岐点(ボスポラス海峡)


カッパドキアの写真
カッパドキア
カッパドキアの写真
カッパドキア
カッパドキアホテルの写真
カッパドキアホテル


カッパドキア岩石群の写真
カッパドキア岩石群
バッカレムの石灰棚の写真
バッカレムの石灰棚

     イスタンブール旧市街地



何故トルコは親日?

もともと、オスマン帝国の実質的な最後のスルタン(皇帝)アブデュルハミト2世は、明治天皇を崇拝、日本美術・文化をこよなく愛していた。1889(明治22)~90(明治23)年にかけて、アブデュルハミト2世の派遣したトルコ海軍の帆船エルトゥールル号が日本を訪問。アジアのイスラム教国を歴訪し、日本には条約の締結を目的として寄港したのだが、帰国途中、和歌山県串本沖で台風に遭い座礁した。この事故で587名もの命が奪われたが、駆けつけた現在の串本町樫野の人たちの献身的な救護により69名が救出された。 樫野の人たちは自分たちの食料が少ない中、助かった人たちに衣食住を提供。この事故は、日本全国に知れ渡り、生存者の帰国のために政府の援助は勿論のこと、日本全国から多くの義援金も集まった。この話は当時のオスマン帝国でも広く知れ渡り、 こうしてトルコは親日国になったと言われている。義援金を持参し、単身オスマン帝国に渡った山田寅次郎は、スルタンから気に入られ、このままオスマン帝国に留まるようにとの命を受けて、約13年間イスタンブールに滞在。日本の商品を取り扱う「中村商店」を開き、スルタンをはじめ、皇族や貴族たちに家具、陶磁器、絹製品などの美術品を通じて日本の文化を伝え、オスマン帝国と日本の友好関係を築いていったといわれている。

その後、オスマン帝国は第一次世界大戦で敗北。トルコ革命を指導したケマル=パシャにより、1923年、トルコ共和国が成立する。「新生トルコの父」と呼ばれ、トルコ初代大統領となったケマル=パシャは、山田寅次郎から日本語を学んだという。