「生きることは死に向かうこと」これは先頃来日したウルグアイ前大統領の言葉である。生老病死は避けることができない。だとすれば、「終わりよければ全てよし」との古人の言葉に学びたい。良き死は良き生の結晶だとの言葉もある。その為には知識と経験を積み重ねることが必要だ。勉強しなければならない。世の中には知らないことがありすぎるからである。
我が家には取り返しのつかない失敗があった。父が突然亡くなったからである。
まだ、50歳の若さ。本人も家族も予想だにしないことだった。死因は心筋梗塞。夜中の出来事だったので、不審死とされ監察医務院で司法解剖。悲しみと驚きに戸惑う中、家族は殺人犯の取り調べのような扱いも受けた。そればかりではない。万一の時への準備ということをしていなかった。一家の柱を失ったときに頼りになるのは生命保険だが、これにも加入していなかった。理由は、勤務先が父のために生命保険をかけているので何かあっても大丈夫という漠然とした安心感だった。
しかし、その保険は企業が従業員を失ったときの損失補てんのものであり、受取人は会社であって父ではなかった。
手にしたのは死亡退職金のみ。弟は、まだ10歳であり、姉である私たち3人もそれぞれ学生だった。
病気がちの母であったが、生活のために起きて働かざるを得なくなった。昼も夜も働いていた母の姿を忘れることができない。
母は小学校の教員だったが、生命保険のことは無知だった。死後の事務もわからず、降って湧いた不幸にてんてこ舞いするばかりだった。「知は力」であることを私はこの時に学んだように思う。
さて、年間ざっと130万人が亡くなる多死の時代である。我が北海道の場合はどうだろうか。
どの年代がどのくらい亡くなるのか。3年前の9月、お彼岸を挟んだ1週間を北海道新聞のお悔み欄で調べてみた。総掲載数656件。ちなみに道内人口は543万人。調査週の死亡者数は80歳代が一番多く261名。90歳代132名、次いで70歳代は137名。60歳代は81名である。100歳代の死亡者は13名だった。なんと死亡者総数の80%は70歳以上の高齢者である。僅か一週間の統計ではあるが、時代の変化も読みとれた。「葬儀終了」という文言が25%。地方よりは都市部で目立つ。一般葬はしなかったということだ。葬儀委員長を立てているのは札幌で152件中僅かに2件。家族関係の変化と近隣との関係が希薄になっている実態も如実にわかってきた。
気になるのは、この方々がどのような晩年を送り、最後の日を誰によって、どのように看取られたのかということだ。生の終わりを幸せに迎えられた方はそれでいい。だが、私の場合、仕事がら経済的に恵まれた方よりは困窮している方々にお会いすることが多い。人生の下り坂でお金に困ることは致命傷となる。お金が人生の全てでないとはいえ、お金がなければ孫にお小遣いもやれないから孫は寄ってこない。友人との交流もままならない。健康も守れない。住居も不安定だ。従って、生きがいなどは持ちたくても持てないのが実情、孤独をかみしめる老後になる。原因は準備不足。加入中の保険はイザというとき自分を守ってくれるのか。認知症になったら、自分を守ってくれる制度はあるのか。知らなければならない。時代は変化しながら進む。健康保険も介護保険も負担が増え、年金額は減るばかり。だが、節約だけが能ではない。少しでも質の高い人生を手に入れるには、何にどうお金をかけるか。家族との協議、そして情報収集が必要だ。
一方で、平均寿命が延びた今、60歳以後10万時間という長い余生を手に入れたことは朗報。桃栗3年、柿8年という。趣味を見つけて10年続ければ専門家になることも可能。生き生きした終活人生を歩むことは自分ばかりか大切な家族の幸せにも繋がるはずだ。家族との良い思い出作り、関係作りをこの時期にこそしておきたい。人生の最終章をエネルギー満タンで旅し、最後にしっかりと命のバトンを家族に渡す。それができれば価値ある終活だったといえるのではないか。