網走2泊3日の旅 モヨロ貝塚で葬儀を学ぶ


モヨロ貝塚入口写真
モヨロ貝塚にて

網走2日目。本来なら午前、午後の2コマ講座を持つ筈だった幻のコウシサマは、この日、初々しくも修学旅行の生徒に一転。朝から雪が舞う中をブラタモリの軌跡を追って、高台にあるモヨロ貝塚館に出向いていった。

 

モヨロ貝塚の発見者は「日本のシュリーマン」と呼ばれる米村喜男衛氏。現在、モヨロ貝塚館で館長を務めていられるのは、そのご子息である。さて、住居跡と思える場所は、生憎、積雪でよく見えない。その代わり、

館内の撮影は何処でもOKSNSでの発信も「どうぞ、どうぞ」との受付嬢の意を受けて、余すところなく撮影。

 

 

だが、展示物に添えられたレクチャーだけでは初見参の私には消化不可能。背景文化の全貌を知るべく、今度は、市立図書館へ。探すまでもなくモヨロ貝塚についての手引書ともいえる「北辺の海の民(新泉社)」は、入ってすぐのテーブルに置いてあった。10数頁をコピー、情報不足を補う。



古代史にこれまで興味はなかった私だが、ここにきて脳の海馬が覆るほどの衝撃を受ける。北海道の古代文化は本州とは違う特異な文化を持っていたこと。当該本によると本州に比べ、旧石器文化が長く、縄文時代の始まりも本州に遅れている。網走は、能取岬の南東側の内湾した場所に位置し、冬の厳しい北西風を防ぎ、やわらげてくれる居住に適した立地。ここに、59世紀頃、北方のサハリン方面から渡来したオホーツク文化人が独自の文化を花開かせ、北の海の幸を最も有効に活用した民族こそがモヨロ貝塚の人々であり、オホーツク文化であったとする。


モヨロ貝塚はオホーツク文化の大規模な墓址遺跡もである。集団内には埋葬規制が存在、埋葬人骨は手足を折り曲げ(屈葬)、頭部には土器を被せられ、85%の人骨が北西方向に頭を向けている。理由は、これら古代人は、千島列島を経由して北海道に渡来したため、故郷の方向を向いているのだとブラタモリで解説されたように思う。人はいつでも故郷に思いを馳せるものか。残った人たちは、逝く人の思いを察して葬ったものだろうか。

全ての墓に見られるものではないが、死者に持たされる副葬品の中には、意図的に壊されたものもあった。土器の底には穴をあけ、鉄器は折り曲げて副葬された。「壊す」ことは「道具としての死」を意味しているのだろうかと展示品添え書きにあった。

 

古代北方民族の独特の葬送儀礼に、生命に対する古代思想の原点を見る思いがする。対比して現代のお墓事情にも思いを馳せずにはいられなかった。




住居跡の写真
住居跡
モヨロ貝塚館
モヨロ貝塚館
モヨロ貝塚館入口
モヨロ貝塚館入り口